あなたは、月鏡ヶ池図書館を知っていますか。
そこは、知識の湧き出る泉。
夜になれば、水面が鏡のように月を映し、それだから、月鏡ヶ池と呼ばれています。
さて、あるとき、月鏡ヶ池のほとりに、一人の月の精が、降りてきました。
月の精は、上も下も関係なく漂よいながら、月に帰るところでしたが、池に映った月が、あまりにも本当らしく見えたので、間違えてしまったのです。
「あら、これは池に映った月だわ。」
地面に降り立つと、辺りを見渡しました。
そこは、一面何もない、野原です。
あるものといえば、緩やかな窪地のひっそりとした池と、その回りに咲き乱れる、紫のすみれだけです。
すみれは、ひかえめにうつむいて、挨拶をしているようにそよいでいました。
まるで、優しく「ようこそ、ようこそ」と言っているようです。
「なんて美しくて、穏やかなところかしら。
月も美しいけれど、あそこは真っ白で、冷たい寂しいところだもの。」
月の精は、池のほとりにかがんで、映った自分を眺めながら、もの思いにふけりました。
どのくらいの時が経ったでしょうか。
サーッと冷たい風が吹き渡り、月の精はもの思いから覚めました。
「いけない、月が呼んでいる。」
もう何にも目をくれずに、大急ぎで帰って行きました。
ですが、なぜでしょう、水面は月の精の姿を映したままです。
月の精は急ぐあまり、池に映ったもう一人の自分を忘れて行ってしまったのです。
その姿はゆらりと動くと、音もなく岸辺に上がりました。
そして彼女は、こうつぶやいたのです。
「あの人は、私を落っことしたまま、行ってしまった。
あの人は、月の精だけど、私は一体何だろう。
あの人には、帰るところがあるけれど、私はどこに帰ればよいのだろう。」
空の月は、彼女には、よそよそしく感じられます。
水面の月を見つめていると、またサーッと風が吹き、見つめる月がゆらゆらと揺れました。
しばらくすると、ぴたっと鏡のような水面にもどりましたが、映っている景色が変わっていました。
自分の背後に、さっきまでなかった不思議な建物が映っているのです。
驚いて振り返ると、本当に大きな石作りの館があるののでした。
門に、ポッと明かりが灯っています。
ひかれるように近づいて行くと、薄明かりで、扉の横にこう書いてあるのが読めました。
『月鏡ヶ池図書館
ここは、何の目的もなく ただただ知りたい
知りたいがために、知りたい
純粋に知識を求めてやまない
そんな人のために 満月のときにだけ開かれる図書館です。
ここは、嘘も真も意味をなさない
知識の羅列する場所。
蔵書から、目的の一冊を抜き出すことができるかは
全て、あなた次第。』
どういう意味だろうと、首を傾げていると、ギギイと音を立てて扉が開きました。
足を踏み入れると、中は静まり返っています。
後でばたんと扉は閉まりました。
中は、窓から差し込む月明かりで、うっすら明るく、本棚がどこまでも続いているのが見えます。
床のそこかしこにも、埃っぽい本が積み上がっています。
きっと、あらゆる世界の、知識という知識がつまっているに違いありません。
彼女は、この光景にぼうっとなっていましたが、ふと何かの気配を感じました。
誰かにじっと見られているような、そんな感じがしたのです。
視線の感じた方に目を凝らすと、積み上がった本の山の陰に、おかしな生き物が彫像のように立ち、横目でこちらをうかがっていました。
この図書館を守る怪物でしょうか。
恐ろしさに立ちすくんでいると、その生き物はひたひたと近寄ってきました。
それは、直立した、大きな鳥でした。
くちばしがひどく大きく、いかめしい様子でしたが、どこか愛嬌のある鳥です。
ガラスのような宝石のような目は、すべてを見通す力があるかのように、水色から金色、
金色から水色と色を変え、古い記憶と知識をたたえていました。
彼女は勇気を出して尋ねました。
「あなたは、どなたですか。」
すると、鳥はついて来いというように、ひとつ頷くと、ゆっくり歩きはじめました。
しばらく行くと、立ち止まり、本棚から一冊の本を、くちばしで器用に抜き出し、床に置きました。
その本は、いかにも古くカビ臭く、茶色の皮の装丁で、何か辞典のようです。
鳥は、足であるページを開きました。
そこには大きな字で、
『はしびろ公』
とあり、こう続きました。
『月鏡ヶ池図書館が創世されてより、増え続ける本の分類、整理、修復、保存に務める、この図書館唯一の司書 である。
その功績は偉大である云々……』
どうやら、この図書館でたった一人、働いているようです。
どことなしに、胸を張って、自慢げな様子です。
「あなたは、はしびろ公という名前なのね。
この図書館にずっといるのね。」
彼女はぽつんと言いました。
「私は自分が何者なのか、どこに帰ればいいのか、分からないの。」
そしてひとつ、涙をこぼしました。
それを見たはしびろ公は、ぎくしゃくと回りをうろつき始め、落ち着かない様子で、彼女の顔を覗き込んだりしていましたが、ふとその場を離れると、
『あらゆる世界の詩・歌』という表示の本棚に行きました。
しばらく考えていましたが、菫色の布張りの美しい本を見つけると、くわえて戻ってきました。
それを差し出すと、読みなさいというように、彼女を見つめました。
彼女は手に取り、ぱらぱらとめくっていくと、一つの詩が目にとまりました。
『満月の夜に 舞い降りた
月の精は 池のふち
月を思って ため息ついた
落としたため息
映った姿に
命を吹き込む
小さなさざ波が広がって 乙女が生まれた
生まれた乙女は Pensee(もの思い)
もの思いの精
どうして、こんな不思議がおきたろう
それは
満月の夜だから
月鏡の夜だから』
はしびろ公は、大きなくちばしの先を、ちょんと、Penseeの字に置きました。
「パンセ……。」
その響きは、彼女の心に驚くほど、しっくりきました。
「そうだわ、私はパンセ。
月の精のもの思いから、生まれたのだもの。」
霧が晴れたような気分で、さらにページを繰りました。
「私の帰るべきは、どこだろう。」
するとこんな詩が見つかったのです。
『もの思いにふけるなら
月明かりの図書館
知識の闇に包まれて
紙とインキの魔法の匂いに包まれて
この上なく幸せ
耳を澄ませば
千里の彼方の海鳴りも
宇宙の果ての星々のざわめきも
博士たちの喧々諤々の議論までもが
聞こえてくる
図書館はあらゆる世界に通ずる
不思議なところ
もの思いにふけるなら
月明かりの図書館
もの思いと図書館は
切っても切れないものだから』
これを読むと、パンセは辺りを見渡しました。
月明かりの中、揺らめく塵も、積み上がった本の落とす影も、どこまでも続く本棚も、彫像のように動きを止めたはしびろ公も、全てが懐かしく感じられます。
「 私の場所は、ここなのだわ。
私は、ここに帰ってきたのだわ。」
こうしてパンセは、自分の名と居場所を見つけました。
今では、司書として、はしびろ公と一緒に、本を整理したり、たまにやって来る人を案内したりして、暮らしています。
あなたも運が良ければ、満月の晩、池の月を覗いているとき、『月鏡ヶ池図書館』を、見つけることができるかもしれません。
パンセとはしびろ公が、きっと待っていることでしょう。
おわり
体長約125cm 材料(羊毛・発泡スチロール・紙粘土・針金・流木・皮等)























